サーフィンとコーヒーの蜜月。

チョコレートの香りを探しながら日本各地を旅するシリーズ、今回の旅は、神奈川県の三浦半島篇。その3回目。

 

文:今井栄一

写真:チダコウイチ

 

Travelogue<br> チョコレートを巡る旅〈三浦半島 後編〉ドーナツとパンとコーヒー、時々チョコレート。
海まで1分の、小さなコーヒーハウス。

中編からの続き)車のバックシートには、「充麦」のパンがどっさり入った買い物バッグが2つ。フロントシートに座っていても、背後のパンの香りが漂ってくる。

 

手を伸ばせば届く場所に焼きたてのパンがある歓び。もし今、天変地異が起きても、ゴジラが現れて家に帰れなくなっても、車を運転している友人と僕は大丈夫だろう。「充麦」のパンが、たっぷりバックシートにあるのだから。

 

さっき我慢できずにひとつ食べてしまった。(充麦のオーナー、パン職人の)蔭山充洋さんが「サロン・デュ・ショコラ」のために作ったパンの味わいが、まだ口の中に残っている。ロウ・カカオ、クランベリー、イチジク、そしてチョコレート、という組み合わせのスペシャル・ブレッドだ。

 

そして今、友人が運転する車は、134号線を、三浦半島の北へ走っている。向かっているのは、葉山にあるコーヒー屋「THE FIVE★BEANS」。森嵜健さん、周(めぐる)さん夫婦が営む、わずか2坪という小さな、でも広大な宇宙が広がるコーヒー屋だ。「ファイブ★ビーンズ」は、The smallest BIG coffee houseである。

 

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小さなボックスの前に立つ警察官が目印の、「葉山御用邸前」交差点。その角に、「ファイブ★ビーンズ」がある。

 

以前このT字路の一画にはガソリンスタンドがあったのだが、今そこはコインパーキングになっている。その向かい側が「ファイブ★ビーンズ」。路面店で、すぐわかるはずだが……不思議なことに「どこにあるのか、よくわからない」という人が今も時々いるという。

 

森嵜周さんは言う。「わかりやすいようで、意外とわかりづらいらしくて(笑)。初めてこの辺りに来る人たちはみんな、視線が御用邸に向かっているから、角にある小さな店に気づかないのかもしれません。パタゴニアの創業者イヴォン・シェイナードが、かつて『自分の店を開くときには、大通りから一本中に入った小径沿いの、探さないと辿り着かないような場所に出す』と言っていたことがあるんですが、ファイブ・ビーンズはそれに近いなとも思っていて。すごくわかりやすい場所にあるのに、わからない、みたいな。あと、わりと入りづらい店らしくて(笑)。でも、そういうところが、私たちにはちょうど良い感じです。直感の鋭い人なら、何の店かわからなくても吸い寄せられるように入ってくる。地元のおじいちゃん、おばあちゃんの常連客も多いです」

 

森嵜健さんが妻・周さんの言葉を継ぐ。「隣の森戸は観光地なんだけど、この辺りは田舎。夕方、海辺に夕陽を見に行こうか、というような、地元民の憩いの場所だから(もちろん夏には、この辺りも観光地になる)」

 

店に来るのは地元民ばかり、と話していたら、ドアが開いて入ってきたのは、まさに地元の人。森嵜健さんのお父さん、昭一さんだ。実は数週間前も、僕はこの店でお父さんとばったり会った。コーヒーが大好きな「森嵜父」は、頻繁にここに立ち寄って豆を選び、家に持ち帰ると、自分で挽いて淹れて飲むのだという。

 

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「以前はサイフォンだったけど、面倒になってしまって、今はあれで淹れています」とお父さんが指さした先にあるのは、イタリアの家には必ず一台ある、直火式エスプレッソ・メーカーのモカポットだ。独特の形状をしたシルバーカラーのそのポットを僕もひとつ持っているが、使うのは希だ。使い慣れていないと美味しく淹れることはできないと思うが、森嵜父は「これの方がずっと簡単」と言う。

 

「これでエスプレッソみたいに濃いのを淹れて、温めたミルクを入れて飲むと美味しいんです。じゃあ今日はグァテマラ(の豆)ね」と言って、必要な分を手にすると、颯爽と去っていった。森嵜昭一さんは実に粋な79歳。木下町の町内会長でもある。

 

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生粋のサーファー森嵜健さんがコーヒーロースターになるまで。

生まれも育ちも葉山町の森嵜健さんにとって、日々の中心、そして、人生の中心にあるのが、サーフィンである。コーヒーは大好きだが、もっと大好きなのはサーフィン。彼は一年中、波が良ければ雪が舞っていても海に入る。「いい波が来そうな日は、朝からそわそわしちゃって仕事が手につかない」と笑う。

 

「ここに立ってコーヒーを淹れているときでも、窓の向こうに知り合いが、もしサーフボード持って急ぎ足で海に向かっていくようなら、お客さんに『すみません! 飲み終わったらカップはプランターに!』って言って、自分は海に行っちゃうかも(笑)。あと逆に、ここに自分が立っていないときは、『波がいい』ということなので、知り合いがぼくの不在を確認してから海に行ったり」

 

森嵜健さんは、波中心の「自由な暮らし」をしようと思って、「ファイブ★ビーンズ」を開いた。なんて幸福な人だろう、とあなたは思うかもしれない。だが、僕に言わせると、森嵜健さんの最大の幸福、幸運は、そんな「サーフィン中心の暮らし」を100%理解する周さんという素晴らしい女性と出会い結婚したことだ。

 

「ファイブ★ビーンズ」は、「好きなことをして、家族全員が幸福に、健やかに生きる」ことを希求するカップルによって生まれた、小さな星なのだ。この銀河には無数の星があり、僕は旅が大好きだが、人も動物も暮らしていない、樹木も生えていない月や火星にはまったく興味がないし、宇宙を旅したいとも思わない。それより僕は、葉山にある「ファイブ★ビーンズ」という小さな星に行く。温かな光の灯る、住民2人のその小さな星には、日々いろんな人たちがやって来る。僕もそのひとりでありたい。

 

 

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もちろん最初から自由な生き方、好きな仕事を手にできたわけではない。森嵜健さんは大学卒業後、大手冷凍食品商社に就職。本社は神戸にあり、研修で中国に行ったり、いろんな現場を見せてもらって、ビジネスに関する様々なことを学び経験したが、食べ物が工業製品として扱われる現場には馴染めなかった。結局3年ほどでその仕事を辞めると、森嵜さんは、「1年ほどぶらぶらしていた。鎌倉のパタゴニアがサーフボードの取り扱いを始めるのにあたり従業員を募集していて、アルバイトとして入りました」

 

仕事場が鎌倉だから家からは近くなったし、海もすぐだ。でも、波のベストなタイミングで海に入れるような自由はなかった。「それで、自分の手に何か職をつけたいと思ったんです。自営業になれば、自分の責任と判断で、好きなときに海に行けるかなって」

 

蕎麦、パン、家具、塩作りなど、いくつか興味を感じる「手に職」があったが、森嵜さんがそのとき選んだのは、小さな貿易商社のコーヒー部門の仕事だった。「ちょうどスターバックスが日本に入ってくる頃で、コーヒーのマーケットが大きく変わりそうだった。スペシャルティ・コーヒーには可能性がある、と思ったんです。あと、オヤジが昔からコーヒー大好きで、幼い頃から家で淹れて飲んでいるのを見ていた。コーヒーの香りがずっと好きだった。だからまず、コーヒー豆のこと、焙煎のことなどを学ぼうと思った」

 

森嵜さんは、たとえば中南米のどこかの小さな農園で丁寧に育てられたコーヒー豆を、自分で焙煎して売りたい、そのコーヒーを淹れて出す店をやりたい、と考えた。一つひとつのコーヒー農園にはそれぞれ名前があり、働いている人たちがいる。コーヒー豆が詰められた袋には農園主の思いも詰まっているはずだ、と森嵜さんは思っていた。

 

「これはどこどこの農園で、こんな農園主が作っているコーヒー豆で、このような味わいがあるんだよ、とか、そういうことを語りながらお客さんにコーヒーを味わって欲しいと思っていた。良い豆を自分で集めて、自分でローストして淹れるコーヒー屋をやったら面白いんじゃないかって思ったんです」

 

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「ずっと小さな店を探していた」と森嵜さんは言う。「あるとき、この交差点を通ると、この場所が空っぽになっていた。前はジュエリーショップだったかな。上の市川不動産にその場で電話したら、とりあえず来なさいって言われて行った。すでにひとり借りたいという人がいたんだけど、結局その人がキャンセルして。不動産屋のオーナーがコーヒー好きのアウトドアマンだった」

 

「ファイブ★ビーンズ」のマークは、タコノマクラをモチーフにした5つのコーヒー豆だ。「小さい頃から、森戸の海岸なんかでよく拾っていた。いくつか奥さんとロゴのデザインを考えたんだけど、昔から好きなタコノマクラがいいなって思って」そう言って森嵜さんは、小さな棚の引き出しから、大小たくさんのタコノマクラを取りだし、カウンターに並べて見せてくれた。

 

「タコノマクラの真ん中にも星があるんですよ」と周さんが言って、ひとつ手渡してくれた。「ほら、真ん中のところ、そこに、★みたいなのがあるでしょ。最初THE FIVE STAR COFFEEという名前の案もあったんだけど、ちょうどスターバックスが日本に展開し始めていて、スターだとかぶるなって思ったのと、あと、自ら五つ星を名乗るのもね(笑)」。店のロゴ・デザインを作ったのは、周さんだ。

 

森嵜周さんの言葉を、森嵜健さんが継いだ。「でも、タコノマクラは使いたかったから、こうなった。星は入れたかったから、つのだ★ひろ的に、THE FIVE★BEANSにした(笑)」。それを聞いて、その場にいたみんな(と言っても4人)が笑った。もし今ここに、10代、20代の若者がいたら、何のことかわからないだろう。つのだ★ひろ。

 

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「もう少ししたら、コーヒーのお供に、大好きなチョコレートを使って、どこにもない小さなスイーツを出せたらいいなって思っているんです」と森嵜健さんは話した。「友だちが、ハワイ島のコーヒー農園で今、手伝いをしていて。コナの南にあるコーヒー農園。本業はガイドなんだけれど、コロナで日本人観光客が来なくなってしまったから、バイトしているんですね。コーヒー農園の中に、カカオ豆の木があって、チョコレートを試行錯誤して作っているらしくて。コーヒーとチョコレートは相性がいいから、一緒に出せたらいいだろうなって」

 

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気がつけば、外は暗くなってきていた。三崎のドーナツで始まった三浦半島ワンデイ・トリップも、そろそろ終わろうとしていた。

 

晴れた昼間の「ファイブ★ビーンズ」はとても心地いいが、日暮れ頃の店もいい。今日の終わりの、一杯のコーヒーをゆっくりと、森嵜健さん、周さんと語らいながら味わう至福のひととき。でもなんと言っても一番素敵なのは、店を出た後だ。

 

「じゃあ、また」と言って店を出て、信号を渡り、向かい側のコインパーキングに停めた車に向かう。車を出すとき、暗くなった御用邸前交差点の一画に、小さな光が灯っている。そこは温かく、居心地のとても良い小さな宇宙が広がる場所だ。踵を返してもう一度そこに戻りたい気持ちがわく。だから僕は何度でも、東京から車を飛ばして、またここへやって来るのだ。

 

葉山、御用邸前交差点角に灯る、小さなコーヒー屋の光。「ファイブ★ビーンズ」という星の光だ。

 

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THE FIVE★BEANS

https://www.five-beans.com

 

 

チョコレートを巡る旅、次回は「瀬戸内編」となります。お楽しみに。

 

 

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文:今井栄一

旅や人をテーマに国内外を旅しながら、執筆、撮影、編集、企画などをおこなう。FMラジオ番組やPODCAST番組の制作も。著書に『雨と虹と、旅々ハワイ』『Hawaii Travelhints 100』『世界の美しい書店』ほか。訳書に『ビート・ジェネレーション〜ジャック・ケルアックと歩くニューヨーク』『アレン・ギンズバーグと歩くサンフランシスコ』『1972年のローリング・ストーンズ』など。