ミサキドーナツとローカルヒーローの物語。

チョコレートの香りを探しながら日本各地を旅するシリーズ。今回の旅は、神奈川県の三浦半島へ。

 

文:今井栄一

写真:チダコウイチ

 

Travelogue<br>チョコレートを巡る旅〈三浦半島 前編〉ドーナツとパンとコーヒー、時々チョコレート。
「まるいち食堂」のお昼ご飯。

小春日和の朝、友人を誘って三浦半島ドライブに出かける。

 

海と山が隣接する三浦半島は、東京に暮らす人にとって、気軽に自然を満喫できるペニンシュラ(半島)だ。都心から、わずか1時間ちょっとのドライブで、別世界が広がる。

 

葉山、横須賀、浦賀、観音崎など、歴史ある観光地が点在し、遺跡・旧跡も多い。滋味深いローカルフードも多種多様。三浦の大根やキャベツ、イチゴ、秋谷のシラス、三崎のマグロ、佐島のタコ、葉山の牛、ほかにも地元野菜はいろいろ。地産地消、有機野菜をテーマにした飲食店が多いのも特徴だ。

 

海が碧く美しい。西には相模湾、東には東京湾が広がり、小さな入り江が無数にある。そんな入り江の奥にひっそりとある水辺は特にきれいだ。南へ行くほど、海の青が鮮やかになる。サーフィン、シーカヤック、ダイビング、フィッシングなど、海の遊びもいろいろ、一年中楽しめる。そして、遙かに富士山を望む極上のサンセット。

 

僕と友人はまず、そんな三浦ペニンシュラの南端の港町、三崎へと向かった。「まるいち食堂」でお昼ご飯を食べ、それから「ミサキドーナツ」へ行って最高に美味しいドーナツをデザートがわりに頬張りながらコーヒーを飲もう、というプランだ。

 

Travelogue<br>チョコレートを巡る旅〈三浦半島 前編〉ドーナツとパンとコーヒー、時々チョコレート。
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三崎の「まるいち」は老舗の魚屋だが、隣で磯料理の食堂を営んでいる。今朝市場にあがったばかりの新鮮な近海魚、有名な三崎マグロなどを、定食で食べられる。刺身、焼き魚、煮魚、いつも「何を食べようか」とものすごく悩む。自分のお腹が2つか3つあればいいのにな、と真剣に思い悩む店なのだ。平日でも正午には満席となり、週末なら行列ができるほど。だから僕らは11時半到着を心がけた。

 

というわけで、友人と僕は「まるいち」でたらふく食べる。それから「ミサキドーナツ」へ歩いていく。

 

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ローカルヒーロー、藤沢宏光さん。

チョコレートがたっぷりかかった「エクレア」と「オレンジショコラ」はマスト。季節限定の「くり」と「りんごドーナツ」も食べてみたい。(ベーシックな)「オリジナルファッション」と「グレーズ」も欠かせないし、「シナモンシュガー」はハワイのマラサダにちょっと似ていて美味しい……。

 

ついつい4つも5つも頼んでしまうことになる。たった今、「まるいち食堂」でお腹いっぱいになったはずなのに。けれど、毎日ここへ来られるわけではないし、せっかく三崎の「ミサキドーナツ」に来たのだから、食べずに後悔するよりも、食べて苦しくなって後悔する方向を、僕も友人も選ぶことにする。というわけで、オーダーしたのは6つ。

 

多すぎるだろっ!と突っ込みが入りそうだが、ミサキドーナツのドーナツは、軽くてやさしくて、甘すぎず、でも美味で、たくさん食べられるドーナツなのだ。チョコレートが美味しい。

 

 『ツインピークス』のクーパー捜査官のように、コーヒー片手にドーナツを味わっていると、藤沢宏光さんがやって来た。近所に住む藤沢さんは、ミサキドーナツと、そのすぐそばにある「ミサキプレッソ(MP)」というイタリアンカフェのオーナー。そして実は、音楽業界ではかなり有名な音楽プロデューサーである。

 

「ミサキドーナツは、2020年12月8日で、オープンして8年になりました」と藤沢さんはかすかに笑みを浮かべながら言った。

 

YMO散開後に高橋幸宏のマネージャーとなり、その後は自分の会社を営み音楽プロデューサーとして多忙な日々を送っていた藤沢さん。THE BOOM、小野リサなど、彼が手がけたアーティスト、ヒット曲は数多ある。

 

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東京で多忙な日々を送っていた藤沢さんが三崎と出逢ったのは、2004年のこと。

 

「うっかり三崎に引っ越しちゃったんですよ」と藤沢さんは言った。うっかり三崎に?

 

「そう。何のプランもなかった。釣りが好きで、ある日三浦の海に釣りに来ていた。その日はまったく釣れなくて。車に戻って着替えていたのだけれど、そこは不動産屋の駐車場だった。外に貼られた物件案内をぼんやり見ていたら、暇な不動産屋だったから人が出てきて『何かお探しですか』と聞いてきた。完全にひやかしだったけれど、いくつか物件を見せてもらってね。葉山から始めて、最後に連れてこられたのが三崎の漁港沿いに建つ古い小さなビルで、ぼくは今そこに住んでいるというわけ。築30年、地下1階、地上3階建て。空く前は、1階がマグロの仲買の事務所、2階が雀荘だった。古ぼけた建物だったけれど、屋上があってね。そこにバスルームと広いバルコニーがあった。目の前に海と城ヶ島が広がり素晴らしい眺めだった。その瞬間に、『買いますここ』とぼくは言い、その日のうちに契約したわけです」

 

飄々と淡々と、低音の効いたその声で聞いていると、なんだか小説か映画のプロットを物語られているようだが、すべて事実。

 

藤沢さんは、そのビルの地下を音楽スタジオにして、自分のペースでレコーディング活動を始めた。地元の「かもめ児童合唱団」のシングル、アルバムは成功し、テレビドラマや、ゆずのツアーでオープニング曲としても使われた。やがて藤沢さんは、「まるいち食堂」のすぐそばの三叉路の角に「MP」を開店。その後しばらくすると、シャッター通りになりかけていた小さな商店街に「ミサキドーナツ」をオープンした。

 

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「新しいことがね、うっかり始まっちゃうんですよ」と藤沢さんは話を続けた。うっかり、ですか。

 

「そう。地元の人から、音楽のプロデュースができるなら、カフェとか飲食店のプロデュースもできるだろ、みたいなこと言われて始めたのがMPで、2010年。コーヒーの淹れ方もわからないし、そもそもお客さんが来たとき、『こんにちは』と言うのかな?というくらい何も知らなくてね。でも、いいシェフが来てくれてうまい料理と酒を出すと、地元の漁師、作家、医者と、いろんな人が来てくれるようになった。東京だと音楽業界の人しか会わないけれど、ここだといろんな人に出会い、いろんな人生を垣間見られる。面白いと思ったよね」

 

はなしの途中で藤沢さんが、「続きはMPでしましょう」と言って、ミサキドーナツから歩いて15秒ほどの「MP」に移動した。この日は休みだったが、藤沢さんは鍵を開けて、コーヒーも淹れてくれた。9年ほど前に彼と始めて会ったのがこのMPだった。それは夏の終わり頃で、外のテーブルで潮風を感じながら飲むビールやワインは最高だった。(今年も間もなくそんな季節がやって来る)

 

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 「地元の人たちと、この商店街をもっとよくしたいよね、という話をしていたら、この物件が空いた(時計店だった)。じゃあ何かやろうと思い、何か粉を使った店にしようと考えた。この街にはすでにパン屋も洋菓子店もあったから、そこと競合したくない。この街にないものを売る店にしたいと考え、悩んでいたら誰かが『ドーナツどうですかね?』と言って、ぼくは『あ、それいいね、そうしよう』と。それで、うっかりドーナツ屋です。

 

当初、『気持ちのこもったドーナツ』というキャッチコピーをぼくはつけた。気持ちがこもっていることが大切。美味しいのは当然のことだからね。安全な材料を使うのも当たり前。ぼくがここで言う『気持ち』とは、こういうはなしなんです。

 

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「こんなに(三崎は)さびれてしまった。かつてマグロでにぎわった栄光の時代もあったけれど、それも今は昔。過去の栄光だけで語られる街角になってしまった。かたやぼくも、過去の光り輝いていた時代の想い出の中に生きていて、新たな生き方を見つけなきゃいけなかった。スタッフだってみんなそれぞれの事情を抱えていた。ぼくはこう思った、『誰もが、何かの希望を見出さないと生きていけない』。ぼくが『気持ちのこもった』というのは、スタッフ含めたこの街角の人全員の心がこもっているということなんですよ。結果として、この商店街や街が少しでも良くなるようにってね。

 

そんな思いを胸に抱いてオープンしたのが、2012年12月8日。プレオープンがあってオープンしたのだけれど、その日は地元の知り合いたちが並んでくれてね。ぼくは泣きましたよ。午前10時に、『ただ今、開店します』ってぼくが言ったんだけれど、ぼろぼろ泣いちゃって。それくらい、ひとつの店舗を作ることって大変なんだ。簡単にできることなんて、何もない。たくさんの工夫と、いろんな人の協力と、本物の気持ちが必要なんだよね」

 

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どんな街にも、「ローカルヒーロー」がいる。尾道にも、盛岡にも、金沢にも、その街のローカルヒーローがいる。それは名物オヤジだったり、地元民に愛される老舗旅館の女将だったり、通りを自由に徘徊している猫だったりするのだが、そのローカルヒーローが素晴らしいのは、見返りなど要求せず、その土地のいろんな物語を語ってくれることだ。「どこどこのラーメンは最高にうまい」という情報に始まって、「〜で見る夕陽の時間はハワイのサンセットよりいいよ」とか。そんなローカルヒーローがいる街は素敵だ。

 

藤沢宏光さんは、今ではすっかり三崎のローカルヒーローである。神奈川県の三浦半島、その南の端っこ、名前の響きのままに岬(みさき)の突端にあるような漁港の町、三崎。

 

くるりが「赤い電車」と歌った京急電鉄の終着駅が「三崎口」だが、漁港のある三崎の街はその駅からは遠く、歩いて行くのは大変。つまり三崎には、最寄りの駅がない。

 

そんな三崎がゆっくりと、でも確実に、変貌しつつある。その立役者のひとりが、藤沢宏光さんだ。

 

季節は間もなく本格的な春。そろそろまた三崎へ車を走らせよう。「まるいち食堂」でアジの干物と刺身も食べて、それから「ミサキドーナツ」でコーヒーを飲もう。週末なら、「MP」でワインを飲みたいから、そのときは京急で行って、バスで三崎へ行こう。イヤフォンでくるりを聞きながら。

 

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ミサキドーナツ 

http://misakidonuts.com

 

かもめ児童合唱団

https://kamome-miura.net

 

三浦・三崎を楽しむ総合情報マガジン『gooone』

https://gooone.help

 

 

 

文:今井栄一

旅や人をテーマに国内外を旅しながら、執筆、撮影、編集、企画などをおこなう。FMラジオ番組やPODCAST番組の制作も。著書に『雨と虹と、旅々ハワイ』『Hawaii Travelhints 100』『世界の美しい書店』ほか。訳書に『ビート・ジェネレーション〜ジャック・ケルアックと歩くニューヨーク』『アレン・ギンズバーグと歩くサンフランシスコ』『1972年のローリング・ストーンズ』など。